NHKの歴史秘話ヒストリアで「間宮」が特集されていました。
その中で、『安堵死』という言葉を初めて知りました。改めて戦争の過酷さを痛感したので紹介したいと思います。
「間宮」(まみや)とは?
大正時代に日本海軍の戦艦などの艦艇に食料を供給する給糧艦として作られました。
「間宮」が製造されたのは大正時代当時、最高水準の機能をもった補給艦だったそうです。
当時は新鮮な食料品を保管し運ぶことを主な任務としていました。
食料供給以外にも軍事物資の輸送などにも従事していました。
昭和3年以降にイギリス軍の真似をして、お菓子を船内で製造する機能が設置されていき、最中やケーキ・ラムネ・アイスクリームや羊羹などのお菓子を作るようになりました。
「間宮」では本職の菓子職人も乗組員として採用され、お菓子の味も本格的なものだったようです。
特に人気だったのが羊羹で、「間宮の羊羹」として現在でも復刻されるほどの人気です。
お菓子を作って慰問することから、「お菓子船」として日本海軍のアイドル的な艦船でした。
戦艦「大和」の乗組員の方も「間宮」が近づいてくるのを発見したら皆テンションがマックスだったと話していました。
『安堵死』(あんどし)とは?
太平洋戦争まっただ中の1944年(昭和19年)の12月20日に、「間宮」単独で大量の食料を積んでサイゴンからマニラへ向かう途中、アメリカ軍の潜水艦「シーライオン」の魚雷攻撃を受けて翌21日未明に沈没した「間宮」。
この任務は速度が遅く、戦闘機能が乏しい「間宮」にとっては自殺行為のような任務だったようです。
※太平洋戦争時の「間宮」はトラック諸島に駐留している日本軍への食料供給が主な任務でした。大正時代に製造された「間宮」は既に旧式艦(燃料が石炭)だったそうで、時速25kmの速度でしか移動できなかったそうです。
「間宮」の乗組員で生存者の方が番組の中で、極寒の海に投げ出された乗組員が漂流する中で、仲間が順々に力尽きて息絶えていったそうです。
翌朝、見方の船が救助に来てかろうじて助かった「間宮」の乗組員の何人もが救助船の甲板で「もう大丈夫だ、助かった!」と安堵してそのまま息を引き取ったといっていました。
助かったと思い安堵して死んでいったことから『安堵死』と言うようです。
広島県呉市の長浜公園には亡くなられた乗組員460人あまりの霊を慰めるために間宮慰霊碑が建てられています。
番組内で戦艦大和の乗組員の方も、太平洋戦争当時の戦艦での生活は過酷で地獄の様だったと話していました。
食べることと寝ることしか楽しみがない生活の中で、「間宮」が運んでくるお菓子は乗組員の一番の楽しみであったようです。
「間宮」は戦時中の兵士にとってひと時の安らぎと幸せを与えてくれる存在だったのではないでしょうか?